誰かの死は人間が生きている間に経験しうる最も鮮烈な喪失体験の一つだ。そして生きている人は皆いずれ死ぬ。しかし、“健康”なぼくたちは毎日の寝て、起きるサイクルの中で、「明日目が覚めないかも」などという恐怖にふるえて眠れないなどということは概ねなく(もちろんそういう夜もたまにはあるだろう)、一秒後自分が生きていることに確信を抱いている。
 ただ、現実はどうだろうか。冒頭で“いずれ”と書いたが、この来たるべき死がいつ訪れるかなんてことは誰にもわからない。いまこの記事を書いているぼくがパソコンの画面を開いたままその生涯を終える可能性だって0ではない。死はぼくらが生きている間中ずっとぼくらの側をつきまとっているのだ。だとすれば、120歳で大往生することと27歳で自殺することに本質的な違いはあるだろうか。
 目の前に今にも飛び降りそうな人がいるとする。その人が全く知らない人であれ、友達であれ、ぼくは反射的に「死ぬな」と止めるだろう。そして自殺はいけないと説くだろう。しかし、それは全て嘘だ。ぼくはなぜ自殺してはいけないのか全く見当もつかない。生きていれば楽しいこともあれば、つらいこともある。だからといって、死ぬほどまでに追い詰められた人に生きさえすればすべてを帳消しにするいいことがあると誰が保証できるのだろうか。当事者以外の誰がその人の生に責任を取れるのだろうか。止める理由はひとえに、死を目の当たりにすることによって普段存在しないものと錯覚している自らの死の気配を感じることを恐れているからだ。
 この恐怖はぼくにもう一つの錯覚を与える。自殺は高度な認知機能によって導かれる極限的な現象であるという錯覚だ。そのせいでぼくは昼下がりの帰り道に塀の上で居眠りをしている猫は希死念慮なんて抱かないと決めつけてしまう。だが、これは人間の傲慢さのあらわれにすぎない。地球規模で考えれば、息が詰まって眠れない夜も交尾が終わり次第メスに頭をかじられるカマキリもアポトーシスで自壊する細胞も等しく“習性”あるいは“現象”にすぎない。
 だからといってぼくは死を考えるほどに思い悩むことが無意味だと否定したいわけではない。現実として誰もが思いを巡らせる。つらい気持ちも悲しい気持ちも現実だ。ただ、「自殺をしてはいけない」というお題目は無責任な社会の要請であって、生まれたときからぼくたちが持っていた機能の一つを行使するにすぎない。
 誤解を恐れずに言えば、自殺はしてもいい。誰もに与えられた権利だ。問題も、責任も、喜びも、悲しみも、すべて消えてなくなる。でもぼくは誰かに死んでほしくない。それは死が悪いことだからではない。ぼくがその人に死んでほしくないから死んでほしくないのだ。だからぼくはぼくの大切なひとたちの死なない理由であり続けたい。


蛇足
 前述の内容と矛盾するようだが、ぼくは自殺することはもったいないと思う。なにかつらいことを我慢して続けたあと、それが開放された瞬間の脳汁はなにものにも代えがたい。それがつらければつらいほど、それが終わったときの快楽物質の量が増えるのは想像にやすいだろう。(部活で最後の試合が終わった瞬間、受験の最後の試験が終わった瞬間、etc)そして、生きることほどつらく、我慢を強いられる仕事はない。だからぼくは最期の快楽物質を最大化させるためにこの世界を頑張って生きていこうと思う。


以下参考文献
https://animalstudiesrepository.org/cgi/viewcontent.cgi?article=1201&context=animsent

ウパニシャッド (講談社学術文庫)
辻 直四郎
講談社
1990-07-05